広い植物園に来ていた。
入った瞬間から、地面に引き込まれるような錯覚があった。コンクリートではなく、土の上を歩いているせいかもしれない。足裏からじわじわと冷たさが上がってくる。気温は低めで、空気が澄んでいた。爪の間に挟まった土が、いつの間にかきれいな色になっていた。
温室の中はさらに涼しかった。ガラス越しの光は白く強く、葉の影だけが濃い藍色をしている。誰もいない時間帯で、水の流れる音だけが規則正しく聞こえる。この静けさは長くは続かない気がする。次の時代は過剰な音がどんどん増えると思う。たぶんその予感は当たる。
園路のところどころに置かれたベンチは濡れていた。朝の雨がまだ乾いていないのだろう。カラスが一羽、通路の真ん中に立っていて、思った以上に雨を弾いているように見えた。
地図を見ると、焦点が合わなかった。血で汚れていない地図は信用に値しない、という考えが突然浮かんだ。理由は説明できないが、そういう気がしただけだ。血で汚れた地図を見せてくれないか、と誰かに聞きたくなったが、もちろん誰もいない。
温室の奥へ進むと、熱帯のゾーンがあった。湿った空気が顔にまとわりつく。その中のベンチに座って水筒を取り出す。中を覗き込むと、水が底で揺れていた。今なら水筒を覗くのが怖くないかもしれない。昔は暗い穴を見るのが苦手だったのに、気づけばそういう不安も薄れていた。
そこでふと、昔、学問に勤しむ子供を斬ってしまったことがあったのを思い出した。あれはたぶん夢だったのだろう。初めてトマトを食べた時の味も、こんな感じだったかもしれない。甘くて、少し青臭い。切った瞬間に汁が飛ぶ。その感触が、あの記憶と重なる。俺はやっぱり、そういう細かい感覚だけを覚えているらしかった。
展示エリアの外れに、小さな池があった。水面に映る空は曇っていて、魚の気配はない。地面に刺さっていないものは遺産とは言えない、と誰かが言っていたのを思い出す。たぶんその通りなのだろう。
歩きながら、無計画なまま動くことの気持ちよさを思い出していた。最後に無計画に暴れたのはいつだったか。船を自分の力で割ったのは我ながら伝説だと思うが、それを話す機会はもうない。
生き残る人はつむじの形が生意気だという話を聞いたことがある。植物園に来ている人の頭頂部を何となく眺めてみたが、よく分からなかった。力こぶも、近くで見るほどよく分からない。
園を出る頃には、空が少し暗くなっていた。冷えた空気が肺の奥まで届く。
次は望遠鏡でも持って星を見に行こうと思う。