誰もいない観覧車に乗る。 今日も乗っているのは俺だけだ。
ゴンドラが上がっていく。街がだんだん小さくなって、人の形が点になって、信号の色が判別できなくなる。高さが増すごとに、視界から情報が削られていく。 観覧車のゴンドラは風に揺れる。支柱が軋む音が、遠くから聞こえてくる。
てっぺん近くで止まる。 風がゴンドラを揺らす。 揺れは小さい。でも確かに質量を持って伝わってくる。
子供の頃、大人になっても透明なままでいられると思っていた。誰にも汚されない、美しいままの自分が、ずっと続いていくような気がしていた。 今は違う。 大人になるということは、輪郭ができることだ。輪郭があるということは、外の空気に触れる面積が増えるということだ。優しい言葉が暴力に変わる瞬間を、何度か見た。 見たあとでも、自分は自分だと思っていたい。 天使のままで、美しいままで、このまま歳を重ねられたらいいのに、という願いが、昔からたぶんずっとある。
ゴンドラの窓に映る自分の顔を見る。 顔は変わっていない。でも、中身はたぶん、思っていたよりずいぶん変わった。
多くの人は、この願いを抱えたまま、現実を無理やりにでも捻じ曲げる方向で進むか、創作という折衷案で落とし込むかのどちらかなんだろう。 どちらも、本当に触れることはできない。 テキストは軽い。映像は平面だ。音は空気を震わせるだけだ。 VRもARも、拡張すればするほど、失われるものが大きいような気がする。 人間はたぶん、もっと重くて、確かに手のひらに収まる何かを待っている。 冷たさとか、温かさとか、質量のあるものの応答を。
何かを言葉にするということは、それを手放すことでもある。 言葉になる前の思考は、もっと重くて、湿っていて、形が定まらない。 言葉になったあとの思考は、軽くて、乾いていて、誰かに渡せる形をしている。 渡せるということは、もう自分のものではないということだ。 そのあいだに、何かが落ちている。 落ちたものには、もう触れられない。
観覧車が動き出す。降りる時間だ。
降りたら夕方だったので、スーパーで丁寧に自炊するための材料を買い込む事にした。