午後の電車は空いていた。 窓の外には田んぼが続いている。
その田んぼの向こうに、どこまで来たのかよく分からない景色が広がる。 遠くまで来た感触だけが先に立って、距離が掴めない。 空いてる電車は確かに心地良いけれど、今どこを走っているのかは友人に聞けば教えてもらえる。 たぶん、聞けるから俺は自分で確かめようとしないだけだ。
電車の揺れに合わせて、俺はさっき買ったコーラのプルタブを開けた。 マイナーなメーカーのやつで、コカ・コーラとは少し違う味がする。 その違いが、なぜか今日はちょうど良かった。
炭酸の刺激が喉に残っているうちに思い出した。 昔から自分は、今どこにいるのかにあまり興味がなかった。
位置の話をしていたからか、友人が窓の外を指す。 さっきの木はお酒を飲んでたんですね、と言う。 木の根元にビール瓶が置いてあったのだろう。
その言葉に続けて、ああいうさりげない場所が会場になるんだね、と友人は言う。 こんなの団地の人みんな喜びますよ、とも言った。
団地という言葉から、なぜか髪をしばるゴムの話を思い出した。 たくさん持ってて良かったという声と、私を縛ってたゴムは無くなったみたいという声が、誰のものかも判然としないまま浮かぶ。
その言葉が指先に引っかかるような気がして、窓のガラスに映る自分の手を眺めた。 すると、卵にヒビを入れる力加減で警戒された記憶が浮かんだ。 卵を割るだけで、あんなに距離を取られるとは思わなかった。
視線を手元に戻すと、友人が飲みかけのペットボトルを差し出していた。 その手つきを見て、水筒の渡し方に愛がなかった日を思い出した。 あの渡し方は、たぶん、何かを伝えたかったわけじゃない。
駅をひとつ過ぎたあたりで、友人がまた話し始める。 さっきの実は体に電気が走りましたよ、と。 さっき自分の影に閉じ込められた人は大丈夫なの、とも言う。
影に閉じ込められるという言葉が耳に残る。 そのままの空気で、友人がぽつりと呟く。 そっかあ、スマホなくてもそうなんだ、と。 忘れるなら石に書いておくといい、とも言う。
忘れる話を聞いて、実家に帰ると暗い箇所をみつけてしまうことを思い出した。
暗い場所にばかり気づくのはおかしな話だ。 それなのに、昔、電話ボックスの中に置いてあった日記のことが頭に浮かんだ。 誰のものかも分からないノートに、誰かの文字が詰まっていた。
視線を窓の外に戻すと、電柱に3人の女子高生が残した落書きの形跡があった。 その電柱には虫がたかっていて、薄くなってよくわからない車の標識が立っている。
その標識を目で追いかけるのをやめて、目を閉じた。 音だけはずっと耳障りがよく、風が体内を抜けていった。
コーラの缶はもう空だ。 炭酸の抜けた空洞が、腹の底に残っている。 その感じが、今の自分の位置を教えてくれているような気がするけれど、それが正しいのかは、たぶん、分からないままだ。