オフィスに入ると、男たちの面白くない話が聞こえてくる。俺はそれを耳に入れないことにしている。声は液体のように、耳の穴へ勝手に流れ込んでくる。働いている場所が美しくないのは、そういう声のせいかもしれない。俺自身は誰とも話さなくていい。俺も無口でつまらないから。でも、周りに醜いものがなくなってほしい気がする。

なぜ動けないのか。たぶん、逃げたいことがないから。逃げる必要がない場所にいる自分は、足を動かす理由を持たない。俺はその背中を、少し離れたところから見ている。

地震が来れば机の下に隠れる。それと同じで、俺の体は刺激に反応するだけの装置かもしれない。過去の転職は逃げたいからだった。あのときは体が先に動いた。なりたいと思って体が動いたことは、一度もない。

今の会社は快適だけど退屈だ。セキュリティもITも関心がない。仕事だからやっているだけだ。嫌なことが起きない限り、次のステップには行けない。俺に災いが起こることが、自分を次の地に運んでくれる気がする。快適さは敷物みたいなもので、足を沈ませるだけで前に進ませてくれない。

俺の体が動くときは、そこから逃げ出したいときだ。

逃げ口がない部屋では、どこへも行かない。

自分だけの締め切りは平気で破る。他者との約束は守る。短歌の公募で1位をとったことがある。あのときも期限があって、誰かが待っていたから反応した。仕事の締め切りを破ったことはない。約束までの原動力がないだけだ、と自分に言い聞かせてみる。たぶん、原動力はそもそも自分の中にない。

人生の悩みは解決しない。妻との暮らしが良くなればそれでいい。お金はもう少しあった方がいい。けれどそれも、頭で思うことにすぎない気がする。頭で思ったことは実践できたことがないから、その願いも机の上に載せたままになる。

天井の火災報知器が静かに光っている。何も起きないまま、ずっと機会をうかがっている。机の下は空っぽだ。まだ何も鳴っていない。壁の避難経路図の赤い線だけが、出口を指し続けている。